西洋挿絵
 

今年の誕生日に友人から図書カードをもらい、
早速以前から狙っていたカイ・ニールセンの画集を買いました。
もう一冊はもうちょっと前に購入したハリー・クラーク挿絵のペロー童話集です。

挿絵画家としてはピアズリーが一番有名でしょうが、
こういう19世紀ヨーロッパの挿絵はいくら見ていても飽きず溜息が出るばかりです。

浮世絵といい、西洋挿絵といい、
やはり線ありきの世界は油彩とは違い、一種独特で凄く魅力を感じます。

線は自己主張が激しいです。
なので線と色とが互角に魅力を引き出し合わないと、
その絵の存在感が生み出せないような気がします。
線と色とが相乗効果になるような作品は本当に素敵です。

| 14:09 | art | comments(0) | - |
 赤いヒンデンブルク

昔昔に描いた絵。
粗すぎる解像度でもいちおうプリントアウトしていたもの。
いや、しかし撮ったのも携帯カメラなので粗さ抜群です。

この頃、ただその色彩と構成で惹かれた
ガウディの建築をちらっとでも入れたりしていたんだと今になって気付く。

この作品は描いていて凄く楽しかった印象があるなぁ。
何をきっかけに描き始めたんだっけ。

今月は絵をメインに生活します。
自分を掘り下げるところから始めて、
引っ張りあげてこなきゃ。


| 12:04 | art | comments(2) | - |
 ゴッホ展
師走で世の中が慌ただしく流れるなか、
新国立美術館へゴッホに会いに行きました。

いつも多くの画家陣に混ざり1、2点がゴッホという展覧会の構成が多かった。
それが今回は8割型ゴッホ。
こういう構成は画家の人生の変化と共に絵柄を追うことができるので、
より感慨深く作品を鑑賞することが出来る。
私にはこちらの鑑賞タイプのほうが合っている気がする。

おもろかった。

人物や生物から溢れ出すのはそこにかつて「在った」という生命力の存在感、
生きていることの生々しさ。

風景から感じるのは粒子からなる風や光が構成する空間の流れ、
そしてそのベースに宿るは万物が常に持つエネルギー。

昔は本当にゴッホの目には世界や人がこんなふうに見えていたのか疑問だったのだけれど、今回はその疑問に対して自分なりに凄く腑に落ちる感覚があった。

見えていたということではなく、見ようとしていた、
そういう表現のほうが向いているのかもしれない。

「サン=レミ療養院の庭」

とても激しい生へのエネルギーを感じる1枚です。


| 11:38 | art | comments(0) | - |
 日曜よりの使者
最近気が付いた。

私は旅をする異性が好きだ。

旅をする人とは、
悩みながらも、
何かが自分に足りないことに気付き、
朧げではあるがその足りない何かを
素直に自分の身体を動かし世界に探しに行ける人なのだ。

どこかの国で答えは見付かるかもしれないし、
どこの国でも答えは用意されていないかもしれない。
けれども、肝心なのは今動こうと思える人だということなのだ。

日本を出て世界を知る、
聞こえは良いかもしれないが、
沢山の素晴らしさの裏側では沢山の失望も付いて回る。
だからこそ、誰もが憧れで終わらせようとする青春夢物語になるのだけれど、
世界に単独で飛び立つ彼らはそんなリスク云々よりも、
己の知的好奇心に素直に従うことを選んだ時点で旅人になるのではないかな。

昨日まで新宿は末広亭の正面、
こじんまりとしたギャラリーで写真展が開催されていました。
友人に教えられて行こうと思ったのだけれど、
色とりどりの優しい写真と彼の旅道具で暖かく穏やかな空間が創り出されていました。

是非、彼の人柄が滲み出る写真たちと出逢ってみてください。

旅の女神にキッスして
〜Tatushiがみたアジア・アフリカ〜


Requiescat in Pace.

| 02:01 | art | comments(0) | - |
 ハプスブルク展

昨日、ハプスブルク展に行って来ました。
平日の閉館時間頃を狙ったことで、
ゆっくりまったりと観て回ることが出来ました。

やっぱり新国立美術館が好きです。
そして昼はあれだけ賑わった建物から次々と人がいなくなり、
ひっそりとした夜の重さを伴う閉館間際はその空間に酔いしれることが出来ます。
ただ、6時には建物のほとんどが閉まるので、
せめてカフェだけは絵画の余韻のためにももうちょっと開けていて欲しいのが本音です。
(せっかくなので帰りはミッドタウンのスターバックスに寄りました)

ハプスブルグ・・・その名前からだけで
絢爛豪華な中世のヨーロッパに想いを馳せることが出来ます。
しかし神聖ローマ帝国といい、オーストリアといい、
どこがどれでどの時代にどの国王が何系かだなんて・・・ややこしすぎます::
ちゃんと歴史を辿って勉強してみたいと思うものの、
未だこの辺りは把握しきれていません。
覚えているのはマクシミリアンという名前がゴテゴテで言いやすかったということ、
そして神聖ローマ皇帝のカール五世はしゃくれ顔だったということくらい・・・

そんな歴史はいざしらず、本当に名画たちばかりで、
足を運ぶべきだと気付いて良かったと感じました。
(余裕があるならもう一度行きたいです)
けれどもどれもが選りすぐりの作品達、
狭い空間に居並ぶ姿は個々の作品の力に比べ、窮屈そうな印象も受けました。

中でも今回印象に残った作品は以下の通りです(私的メモ)
●エリザベート                フランツ・クサファー・ヴィンター・ハルター
●洗礼者ヨハネの首を持つサロメ        ルーカス・クラナッハ(父)
●物乞い                   ルカ・ジョルダーノ
●クレオパトラの自害             グイド・カニャッチ
●フェリペ・プロスペロ王子          ディエゴ・ベラスケス
●白衣の王女マルガリータ・テレサ       ディエゴ・ベラスケス
●森の風景                  ヤン・ブリューゲル(父)
●読書する画家の息子ティトス・ファン・レイン レンブラント・ハルメンスゾーン・ファン・レイン

足を進めても進めてもどこかで聞き齧った覚えのある画家ばかりで、驚かされました。
オーストリア皇族の肖像画に始まり、
イタリア絵画、ドイツ絵画、スペイン絵画、フランドル・オランダ絵画・・・
ここまでこれだけ内容の濃い作品群ばかりの展覧会はそうないのではないでしょうか?

領土繁栄と美への執着、
そして人間の力の源である欲に忠実に生きたかつての人々達があったからこそ、
自分達はこうやって素敵な作品群と巡り会えることを不思議と思いつつ、
ならばその絵の1枚1枚に画家を始めとするかつての人々の思念、喜びや悲しみ、
憎しみまでもが宿ってはいないのだろうか?
閉館ギリギリまでベンチに座り、
ただただ若くして亡くなったフェリペ王子の絵の前で想い耽っていました。

そして歴史的背景や
絵画の技法などの知識を省いたまっさらな自分で向かい合ったとしても、
その絵は自分にとって感動するに値するものなのだろうか?
もしくは絵の持つ存在感を
より生々しく受け取ることが出来るのだろうか?とも考えていました。

知識を持ちつつ論理的に視点を合わせる時と、
全てをオフにしつつ、感受性を軸に向き合う視点、
このスイッチの切り替え方は身につけることが出来るのでしょうか?

けれどもハプスブルグ、もっとちゃんと勉強しよう。
したいと思うことが出来たから。
そしてやっぱりスペインに行きたい。


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| 23:59 | art | comments(0) | - |
 クリムト・シーレ
話はかなり前のこととなりますが、
会期終了直前でクリムト、シーレのウィーン世紀末展を見に行きました。

久しぶりに赴いた日本橋の高島屋。
未だにエレベーターガールが働いており、
その豪華さと懐かしさからこれぞ老舗の百貨店を思わせます。

展覧会といえど百貨店内に設けられた美術館ですので作品数は少ないものです。
けれども現物で見る2人の作品は初めての機会だったこともあり、
新々力溢れるその時代の重さを僅かながらでも感じ取れたような気がしました。

印象に残った絵はクリムトのパレス・アテナ
そして館内の文章に記されていたクリムトの言葉でしょうか。
うろ覚えなのですが、「芸術にはその時代に合う、合わないがある」
そんな内容だったと思います。
時代の先端で自分で新しいものを創り出そうとしたクリムトのこの言葉が、
自分には響くなにかがありました。

こないだ描いた絵を父が見たときに
「いいと思うんだけど。今はこの手の絵は山ほどあるでしょ」そう言われました。

自分でも頭で分かっていたことなので何も言い返せなかった。

同じカテゴリーの絵柄を描いている人には、
その絵描きそれぞれの細かなタッチで差が分かるのでしょうが、
一般の方から見たら父のような意見が大多数なのだということも分かります。
そして多くの絵の中に埋もれて境が分からなくなるのであれば、
その絵はクリムトの言う「時代に合った絵」ではなく、
「時代に合わせた絵」なのだと思います。
自分で足掻くことをやめ、自分にしかないものは追い求めない。
彼が言う「合う」とは、その他大勢の中から一際前線に出て、
足掻きつつも新しいものを作る人のことだと思ったのです。
そしてそのパワーは時代をも味方にしてしまうよな・・・。

自分にしか描けない「なにか」
そういう一番シンプルな強みを持たなきゃいけないんだろうな。

ただ、クリムトはその時代に選ばれたけれども、シーレはそうではなかった。
自分としては両者共に魅力を感じますが、
躍動感や生命力に関してはシーレの絵が凄く好きなのです。
今回はあまりシーレの展示がなくて残念だったけど・・・。

| 12:34 | art | comments(0) | - |
 芸術の秋
オルセー美術館展ウィーン世紀末展のチケットを貰いました。
ウィーンはエゴン・シーレの生絵が観れるので是非行きたいです。
思い返せば、大学時代にシーレの画集をLOGOSで見付け、凄く衝撃を受けました。
多くが裸婦にも関わらず、厭らしさよりも生々しさを感じたのです。
その生々しさも決して目を背けたくなるものではなく、
生命力があるというか、凄く惹き付けられたのを覚えています。

数多くの魅力的で惹かれる絵描きは居れど、
自分がこの人の絵は凄く好きだ!と見てすぐさまに直感したのはシーレとバスキアだけです。
(本物を観て好きになったのはモディリアニかな)

どちらとも自分の絵とは似ても似つかないんですけどね。

来月はもう少し自分の時間が持てるのでちょうど良かった。
秋は美術館巡りでもしてみようかな。

絵は上手くならなくてもいいから、
せめて自分が描きたいと思った世界を形に出来る技術は欲しい・・・なと。

| 02:27 | art | comments(0) | - |
 明日の神話

先日渋谷駅でお披露目された岡本太郎氏の明日の神話です。
仕事がてら帰りに渋谷に寄る事が出来た一昨日、呆としばし眺めて来ました。

う〜ん、大きくて原始的な色だなぁ、と感じつつ。

メキシコの資材置き場から帰還を遂げたこの作品、
ようやく日本に居場所が作られたものの、
忙しなく行き交う人ばかりの渋谷駅が
この作品を置く場所に適合しているのかは分かりません。
ちょっと妙な空気差を渋谷が表す社会と作品の間に感じたような気もします。
けれどまぁきっと、そのうち時間が経てば落ち着くのかなぁ。

また今度じっくり見に行こうっと。



| 10:32 | art | comments(0) | - |
 乙女三昧
昨日、知り合いの絵師さんお二人と根津駅近郊にあるモダンでレトロな美術館、
弥生美術館・竹久夢二美術館に行って来ました。

炎天下の12時に根津駅に待ち合わせをし、
お昼は何食わぬ顔して東京大学に潜り込み、大学学食で昼食を摂りました。
値段も安いし、古めかしい建物の地下にある学食は何とも赴きのある場でした。
かなり居心地が良かったのでしょう、気付いたらもう2時半を回っていたのではないかな。
やはり、絵の話題がいくら話しても尽きず、とても楽しいひと時でした。

その後、予定通りに美術館に入り、ゆっくりと館内を堪能しました。
一緒に付き合って下さった絵師さんのお一人が、
この時代のこのジャンル・・・レトロでモダンな少女雑誌について造詣が深く、
色々なことを教えて下さいました。

1人1人の絵描きの癖の変化もさることながら、
少女雑誌の絵→少女漫画への流れも知ることができ、
自分たちの今の時代に最先端と思われる絵柄も、
時が過ぎればいつか一連の流れとして残されるのだろうなぁ・・・
そんなことを考えたりもしました。

そしてこういう展示物を観ると、日本独特の平面構成の美しさに魅せられます。
雑誌掲載を目的とした絵なので、作品のサイズとしては大判でもないし、
この一枚がとても素晴らしい!という鑑賞対象ではありませんが、
部屋一面が当時の少女に「粋」とされた絵で囲まれると、
その時代を彩った空気や熱い想い、そういうものを少なからず感じれた気がしました。

美術館を後にし、しばし小休止をしようということで美術館に隣接したカフェに立ち寄るも、
そろそろ閉店時間まじか・・・(たしか5時閉店でした)
では根津では老舗と言われる「はん亭」に行こう、と足を向けたのですが、
ここでもタイミングが悪く、この日の喫茶営業はもう終了していました。
(いつかはん亭で夕食を食べてみたいです。串揚げ大好き。あのストップコールを自分でかける形式が何とも・・・)
ではでは・・・と根津駅近くの甘味屋に入り、軽く小腹を満たしました。

その後は芸大を通り抜け上野方面へ歩き、
夕飯は上野PARCOのレストランフロアへ。
軽食をサイドに、お互いがどういう絵を描きたいか、どういうことを考えて描いて来たか・・・
他愛のないことも合間に取り入れつつ、色々なお話をすることが出来ました。
お酒も入り、のんびりまったり気分で話しているともう夜の10時。
なんとも時間が経つのが早いことに驚かされた一日でした。

お付き合い下さったお二人に感謝してます。

| 23:14 | art | comments(0) | - |
 Ophelia
8/30日からジョン・エヴァレット・ミレイの展覧会が催されます。
名前はそのまま、ミレイ展

これは是非行きたいなぁ。
自分が昨年絵板で描いた、
あの「オフィーリア」が目玉としてはるばる日本までやって来るのだから。
いつか英国という霧漂う国の空の下で見れるかなぁ?そう思っていたものが、
こんなに早く目にする機会が出来るなんて・・・。
宮崎監督が推薦していた作品だけに、監督の新作公開に合わせたのでは?
そう勘ぐってしまった自分は考え過ぎかな。
でもそうだとしたなら監督に感謝。

このオフィーリアという作品には昔から魅力を感じていました。
でね、この作品を好きなのは女性が多いような気がします。
だって描かれている情景がすでに魅惑的なのに、
その絵の主人公たるやまるで少女漫画のように悲劇に浸かる
ドラマチックな存在じゃないですか。

儚くて脆い純真な少女は愛しき人に罵倒され傷つけられ、
知らず知らずのうちに狂気の世界に入り始める。
そんな少女が最後を迎えるのは水の中。
この絵はもがきもせず、感情的にもならず、だんだんと沈んで行く、
その沈みがまさに始まる一場面。

時間をかけて次第に沈んで行く様は次第にこの世と決別するかのよう。
死ぬことに時間がかかるというシチュエーションは、
突発的なことではなく、
自らが覚悟して向こう側の世界に足を踏み入れたようにも思えます。
繊細で愛くるしさを持つ狂った少女が刻々と迫る自らの死を受け入れる。
とても絵の情景として魅力的な要素だと思うのです。

ハムレット本文においての彼女の死は、
人ずてにハムレットに語られるのみの場面しかありません。
彼女の死を知らせる台詞としての文章は叙情詩的に語られます。
ただ、あくまでも人の台詞の世界でのみ描かれる死であり、
実際の場面としては存在しないぶん、観客にとってのその死は曖昧模糊。
けれどもこの絵はその文章をまさに忠実に描いていると思えます。

そして自分はきっとこの絵の彼女はまだ死には至ってないと思うのです。
水面に浸る両の手のひらには未だ何かを求めている気がする。
何よりも空を仰ぐ視線には狂女としての彼女の表情が読み取れる気がする。
そう考えると、水の流れる音とともに、
今にも彼女が最後に口ずさんだ祈りの歌が聴こえて来そうな気さえするのです。

作品を実際にこの目で見たら、
新たにどんな感想が生まれるのか?
かなり横長なので右からと左からと見るだけでも印象が変わるんだろうな。
想像するだけで楽しくなります。

付け加えですがこの絵は元より、「ハムレット」という作品が好きです。

この物語の底に蔓延るのは復讐。
復讐は今まで無でしかなかった彼に、
周りを陥れるために人生を演技したいという欲望を与えます。

その欲望の炎は高く燃え上がり、
周りに飛び火し、大きくうねり全てを呑み込み始める。
そして仕舞には彼自身の自己をも焼き尽くす。

ハムレットに限らず、シェイクスピアの作品はそれぞれが魅力的です。
奇知に富んだ言葉、人間を鋭い観察眼で捉えた描写力、
そしてそれら全てを物語としてまとめあげる構成力、
これらが今なお彼の作品に輝きを与えるのでしょうね。

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